軽妙な金管楽器の音が耐えない。ステージから降り注ぐ灯りから顔面を庇うようにして男は腕を組んでカウンターに突っ伏した。
ハズしたか、舌打ちをソルティードッグで飲み干してどんちゃん騒ぎから耳ごと意識を引き剥がす。
うるせぇんだ、どいつもこいつも。
昨日引っ掛けた女、一昨日殴った男、一昨昨日の騒動は、もう覚えていない。
めんどくせぇ、うざってぇ、あぁ、だりぃ。
酒をいくら煽っても、金をいくら撒き散らしても、女をいくらはべらせても、満たない。
力のぶつける先、受け止めてくれるものを、自分は知らない。
知っている、自分はサディストだ。
異常な性感覚を持っていて、であるがゆえに、人をまともに愛せない。
だから他人とまともに付き合えない、と誰かに貼られたレッテルを都合のいい言い訳にして、落ちるところまで落ちてきた。
あぁ、うざってぇ、ねむてぇな。
考えて頭を落とすと、誰かが近づいてくる気配があった。
習慣で、目を強く瞑り頭を思い切り抱き込む。
「両脇ガラ空きじゃんいろおっとこ」
よ、とおそらく片手を挙げて現れただろう男は脚の欠けた椅子に器用に跨って声を上げた。
流し目に睨めつけるとちっとも悪びれていない風に、おお怖い怖いと手を降る。
「ぁんだ、てめぇ」
酒でしゃがれた声が出た。
ヴァスコ・ダ・アニア。
この界隈の歓楽街では、自分を知らないものの方が少ない。
よそ者か、あるいは世間知らずか。
どっちにしたって大したやつじゃない。
相手をしないと決め付けて、もう一度頭を落とす。
同時にくてりと上半身をカウンターに投げ出してまでこちらを覗き込んできたから、後者であるらしいと黙殺を決め込んだ。
表に出さないように椅子を引いて視界から追い出して、今度は雑音に意識を集中させた。
「マスター、同じのを」
馬鹿いえ、軽口の応酬の末お前は精々ワクだなんて無意味なリップサービスまでついてくる。
「……何の用だ」
仕方なしに身を起こして、前髪を書き上げた。
「見ねぇ顔だな」
「ん、まぁここいらは初めてよ」
「だろうな」
なまっ白いガキだ、と、小さく呟いた。
「ガキね、お尻の感染症の心配されるよかよっぽど紳士的な扱いだ」
おっと食事中に失敬、一杯奢るからさと若者は大仰に一礼する。
「うるせぇ、ちびの相手する気ァねぇ、失せろ」
切って捨てるように言って、席を立つ。
酒は緩やかに回っていたらしく、少し足元がふらついた。
と。
「ヴァスコ・ダ・アニアだな?」
ひとりの男が目の前に立ちふさがった。
「あ゛?」
答えると同時に、ナイフを向けられる。
「――死ね」
短く吐き捨てるように言って、男は一気に体を詰めた。
「――ハ」
反吐が出るほどに――哂える。
軽く身をひねる。手にしたボトルで殴り倒す。
「ざまぁ」
ものの一秒とかからない、唇は笑みでつり上がっていた。
ああ、楽しい。
ぶち壊すのは、なんて気分がいいんだろう。
「……っ」
と。
傍観していた隣人が唐突に息を詰めた。ああ、ブルっちまって逃げ遅れたか、なんてどうでもいい思考が瞬く間に流される。
さぁ青か、白か、土気色か?
腕に散る破片の痛みも忘れて見入るが、そこに浮かんだのは。
「…っいい腕、してんなぁ…」
紅潮。上ずった声が滑るように、はち切れんばかりの高揚を込めて吐き出される。
足元の死体未満に目を凝らし男は感慨深くつぶやいた。
「は?」
何言ってんだ、こいつ。
ビビって壊れたか。
そんなことを思って、改めて後ろの男を振り返った。
手に持ったボトルから、血だかワインだかが溢れる。
持ち上げて舐め取って、我知らず一つ、息をこぼした。
なんでったって、こんな息を。
考えて、すぐに気がつく。
ああ。
目の前の野郎、欲情してるじゃねぇか。
打ち震えた拳をそっと解き、餓鬼は息をついた。吸う、吐く、吐く。
上げた顎が華奢で線の細さに目がいくも、出っ張った肩骨でどうにか下にモノついた野郎らしいということを思い出す。
「さて、あんたはどうでるかね…お立ち会い!」
最後は小声で吐き捨てるように言って、あろうことか青二才はカウンターに足をかけた。
マスターが気色ばんで袖をまくる。
「レディース、アンジェンノメ!」
仁王立ちになって野郎はいっそ楽しげに声を張り上げた。
「ハズレは逃げろ、群れがくるぞ!」
途端、蜂の巣を放り込んだような騒ぎに呑まれる。
阿鼻叫喚、非難号号、床下から天井まで響き渡る人の声に地鳴りが鼓膜の上を踊る。
「ってめぇ、何言って…!」
言い切るより先に、その女じみた男が動いた。
額に巻きつけた布飾りが音を立てて、揺れる。
「舌噛むぜ?」
頭上からはたき落とされて顔面ごとカウンターに突っ込んだ。
ささくれが歯茎に食い込んで呻きを漏らす。にじんだ鉄の味に遅れて痛みがやってきて、もがくと圧力が強くなった。
その頭上をものの数秒遅れて耳障りな轟音が突っ切る。
「あ、防ぐべきは両耳だったか」
能天気な声を上げたのはその場に一人きりだった。
「――ってめぇ、何もんだ、ふざけやがって……」
きり、と小さく歯噛みした。
「みんなのお仲間。自称ね」
ちょーっと反骨精神筋金入っちゃってますけど、なんて付け足してふざけた男は伏せたまま同じ目線でまた手のひらを見せた。
「……お前、で、俺に何のようなんだよ」
結論を急いた。
「何の、用なんだ」
「君に、会いにきた」
うっとりと男は微笑んでべ、としたを出す。形作った愛想笑いが崩れる様をスローモーションで見たのは初の事だった。
「てのはまぁ、場を和ませるための笑えねぇ冗談で。俺も逃げてきた」
親指を立てて、人がいなくなった方に山積みになった影を指す。
「で、疫病神はそれらしく報せに走りました次第」
「ハ」
もう一度、笑った。
くだらない、一瞬期待してしまった。
君に、会いに来た、その言葉に。
やさぐれた心が、また嗤う。
期待しやがって、ばぁか。
「じゃ」
とっとと、消えちまいな。
ボトルを掴んだ手に、また力を込めた。
このまま一気に振り下ろせば、この目前の不快なオトコはまた眠って、落ちるだろう。
けれどなぜかそうするのはためらわれて、手から力を緩めた。
「どっか、とっとと行っちまえ」
はいはい、存外あっさりとクソ野郎は身を引いた。
「あーツマンネ、あんた食われちまうの」
つま先を揃えて振り返りざまそんなことを聞く。
「――は?」
食われる?
言っていることのわけがわからなかった。
世間のことには疎い。
俗世の言葉などほとんど知らない。
さっきの外れだのなんだの、何の話だ。
「…はい?」
耳をつんざく破裂音がして、ガラス戸が防弾を抜かして見事に吹っ飛ぶ。
「いや、アンタ…、ハズレだろ?」
今度は腰を抜かしていたマスターの方がはいよってきて、まてまてまて、と態とらしく額を拭った。汗が伝うのは右頬の方だと言うのに。
「アレ、知らねえって、そりゃねえよ…」
脂の乗った人差し指の、先には。
ぐにゃぐにゃの、ああ、ブギーマンだ。
小さい頃に何度も見た。そういえば親戚も食われたっけ。
「あんなんにビビってんのか、がきじゃねぇの」
つぶやいて、キリ、とまた歯噛みする。
どんな悪い酒だ、こんなつまらないもんまで見せやがって。..
「つまんねぇマネしやがって」
吐き捨てるように言って、もう一度ボトルを振った。
キリリ、と、張り詰めた殺意が全身を包む感覚がある。
「ぶった切ってやる」
言うや否や、体が軽く飛んだ。
手元のボトルが、ナイフのように鋭く、尖る感覚。
翼を得たように、体が軽い。
そのまま、一刀両断。
上から下までぶった切って、そのまままた一つ、息をついた。
降り立つと、唖然と見上げる視線が一つ。もう一つは先程も目にしたものだ。
二度目にしてやっと理解出来た。ドウケイ、こいつは見にまとうのに非常にかったるい部類のもの。
握りしめたボトルの感触にうんざりして投げ捨てると死体もどきが飛沫を受けてもがいた。
「戻んのね、ソレ」
弾んだ声が、待ちきれない、とでも言うようにすりよってくる。
「おー」
適当に答えてやり過ごす。
元に戻る、だからこそ、警察に面倒事を見つかっても裁かれないで済んだのだ。
「そうだ、てめぇ他人にばらしたら……」
面倒だと思いながらもう一度振り向くと、また視線にかち合った。
違った意味で危険をはらんだ目。怯えた眼差しの群れに埋れることなく生き生きと輝く。
不定形生命体の成れの果てを靴裏に敷いて男は笑った。
「アンタ、面白いなぁ!」
うん、うんとわけのわからん首肯を一人満足げに続けて男は背を叩く。
そういや表は未だ乱闘騒ぎだというに、持ち込まれた喧騒は一つ限りだ。
不審に思って目を向けるとずいと顎を突き出された。
「やりたい放題ね、悪かない、むしろ最高」
見てて気分がいいよ、と無遠慮にひときわ強く張り手をかまされた。
「っ……!」
何しやがる、と怒鳴るより先に湧いたのは、純粋な驚き。
この俺の背を、あっさり叩いた。
ただのひょろっちい男に、バック取られたってのか。
「――ただもんじゃねぇな」
つぶやいて、ぐい、と頬を拭った。
「お客さん、困るよ…」
割って入った蚊の鳴くような声が哀れっぽく尾を引く。
「ワリワリ、有り余った諸々あっちに割くから」
対峙する相手は破片まみれの床の先を指して、しゃがみこんで中年男の背をさする。
「ーンなわけでちと、付き合って下さんない?」
興奮覚めやらぬ、でしょ。
蠢いた化け物の内側を鈍く乱反射して、ぼこぼこと形を変えた影を踏んで男はちょいちょいと手招きをした。
「ハ」
また鼻で哂って、足を動かした。
ぶらり、と歩いて前に進んだと思った矢先、頭がぐわりと揺れた。
「――あ?」
酒の酔が、今になって回りきったのか。
「ぁ」
がくん、と、足で踏みこらえる。
「――、くそ、」
うめいて、崩れ落ちかける、その直前に、男の腕がシャツを引き掴んだ。
「じゃあ、また明日」
苦笑する優しい響きが耳に届いた、と思えば喧騒が遠のいて、支えられた背の感覚を最後に全身の力が抜けた。